松山市民便利帳2018年版
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■ 松山生まれ、松山ゆかりのグレイトマン松山には実はこんなにもゆかりの人物がいるのです。高たか浜はま虚きょ子し種たね田だ山さん頭とう火か三み輪わ田だ米べい山ざん加か藤とう拓たく川せん新にっ田た長ちょう次じ郎ろう中なか村むら草くさ田た男お石いし田だ波は郷きょう河かわ東ひがし碧へき梧ご桐とう(明治7年~昭和34年)(明治15年~昭和15年)(文政4年~明治41年)(安政6年~大正12年)(安政4年~昭和11年)(明治34年~昭和58年)(大正2年~昭和44年)(明治6年~昭和12年) 湊町出身の俳人。「平明にして余韻ある俳句」を標榜し、守旧派としてホトトギスを牽引した。ちなみにこのホトトギスからは、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男などを輩出している。 山口県出身の俳人。自由律俳句の担い手として膨大な量の句を残した。西日本各地を放浪し終の住処として松山市を選んだ山頭火は、友人を頼って一草庵を結庵した。 市内出身の書家。奔放で自在、独創性と躍動感にあふれた書で知られる。日尾八幡神社の注連石の文字が評判となり、揮毫の依頼がまいこんだ。松山郊外には彼の石文が多く見られる。 湊町出身の政治家。正岡子規の叔父であり、秋山好古の幼なじみでもあった。衆議院議員や貴族院議員を経て晩年は松山市長を務めた。拓川は号であり、石手川に由来する。 山西町出身の実業家。日本初の動力伝動ベルトを製作し、帯革製造業で成功を収める。教育事業に積極的に関わり、現在の松山大学創立の際も、巨額の私財を投じた。 中国生まれの俳人。3歳で帰国し、松山中学・高校へ進学した。守旧派の形式をもって人間の内心を詠う「人間探求派」として第3の勢力となった。「昭和の芭蕉」と言われる。 西垣生出身の俳人。草田男らと共に人間探求派のひとりとして活躍。若くして病に冒された生涯であったが、病魔との闘いをとおして生を見つめる作風が評価されている。 千舟町出身の俳人。従来の形にとらわれない、新傾向俳句を詠む。虚子とは学生時代からの友人関係であったが、「守旧派」として伝統的な五七五調を擁護する彼とは激しく対立していた。日尾八幡神社の注連石(写真/松山市子規記念博物館)(写真/松山市子規記念博物館)(写真/松山市子規記念博物館)(写真/松山大学)(写真/松山大学)(写真/日尾八幡神社)

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